カテゴリ:チェコスロヴァキア史( 8 )

16年前・・・

 もはや民主化への動きを起こしてもソ連にけん制されることもないということを理解したチェコスロヴァキアの人々は、ちょうど16年ほど前に、体制転換をします。
 国名こそは「チェコスロヴァキア社会主義共和国」でしたが、実質は資本主義的な民主制志向の国づくりへ向かうことになります。
 チェコスロヴァキアが体制変換を起こした1989年より数年後また政治体制変換を行うことになるのですが、とにかく16年前の今日あたりはまさにその改革の熱がピークに達する一歩手前の日でした。
 今ではチェコではもう東欧革命のことを革命とは言いません。改革といいます。それだけに醒めたという実感があるということだったのですが、とにもかくにもその当時は熱かったわけですね。
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by zmrzlina | 2005-12-27 20:26 | チェコスロヴァキア史

1922年という年

 22つながりということで、1922年のチェコスロヴァキアについて少し書いてみようと思います。
 1918年にまず今まであったオーストリア・ハンガリー二重君主国が解体されます。
 その領土を受け継いだ国々は、オーストリア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ポーランド、ルーマニア、イタリア、そしてチェコスロヴァキアでした。
 チェコスロヴァキアの場合は100%新興の独立国家でした。
 そして、オーストリア・ハンガリー二重君主国の財産を受け継ぐわけですが、この以前のオーストリア・ハンガリー二重君主国の工業の80%、とそして農業を受け継ぎます(これは主にハンガリーだった地域から)。
 以前のオーストリア・ハンガリー二重君主国の縮小版という感じで、多民族国家で、かつ農工業一応何でもござれでした。
 このようなこともありまして、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー二重君主国の解体後成立した後継国家の中ではもっとも有利な条件で成立することが出来ました。
 
 それでも、一度倒れた国家の経済を受け継ぐということは、つまり今まであった経済の破綻をも受け継ぐということになります。
 後継国家はみなインフレに悩まされます。チェコスロヴァキアも例外ではありませんでした。1923年位まではまあまあのインフレを経験します。そこをラシーンという大蔵大臣が強硬な引き締め策をとって、インフレを収束させます。
 この時代によく知られたインフレの例としてはドイツのものがありますね。この時代もうどうしようもなく収拾の付かない記録的インフレに陥ったものです。
 チェコスロヴァキアの場合はまずまず回避できたということでしょう。この後にチェコスロヴァキアに繁栄が訪れることになります。1938年頃までは。
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by zmrzlina | 2005-12-22 21:47 | チェコスロヴァキア史

最初のチェコスロヴァキア切手

 今日12月18日は初のチェコスロヴァキア切手が発行された日です。1918年12月18日のことでした。
 この切手をデザインしたのはかのアルフォンス・ミュシャです。独立宣言が1918年10月28日ですから40日間以内に図案を仕立てて、そして切手にして発行した訳ですから突貫工事もいいところです。
 チェコスロヴァキアが新興国家として成立することを宣言しているかのように太陽が描かれています。実はこの風景を見るときは南から北を見るので天文学的にはありえないことですが、ミュシャはそれをあえて承知でこの図案を採用しました。
 これから87年経ちました。デザインとしてはさすがミュシャだと思います。しかしながら、この87年の間にチェコスロヴァキアは様々な事件を経ました。確かにチェコスロヴァキア切手は非常に私を捉えて離さないものですが、果たしてチェコスロヴァキア独立が本当にチェコスロヴァキア地域にとって利益のあったものか、それは今でも議論されていることです。
  いずれにせよ、チェコスロヴァキアの切手はこれから始まりました。a0011027_2374627.jpg
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by zmrzlina | 2005-12-18 23:08 | チェコスロヴァキア史

明日はチェコスロヴァキア独立記念日

 標題どおりですが、明日はチェコスロヴァキア独立記念日です。
 ところが今はチェコスロヴァキアという国は存在せず、チェコスロヴァキアを元にチェコという国とスロヴァキアという国があります。

 受け止め方が違います。
 チェコでは明日10月28日は祝日です。
 スロヴァキアでは祝日ではありません。
 温度差を感じられずにはいられません。
 チェコはチェコスロヴァキア時代の国旗をそのまま受けつぎました。スロヴァキアは独自の国旗を定めました。
 スロヴァキアにとっての独立記念日は1993年1月1日です。チェコも1993年1月1日に成立しました。しかしながらこの日はチェコにとっては「新年」という祝日です。独立記念日ではありません。
 チェコスロヴァキアを受け継ぐのはチェコであるという主張を聞くことができます。スロヴァキアでは聞くことができません。
 明日でチェコスロヴァキア独立から87年です(1918年10月28日独立宣言)。
 私は特にスロヴァキアの人々がどのようにこの日を解釈しているのか知りたいです。
 スロヴァキアは以下のように宗主国を変えていきました。
 ~1867年までオーストリア帝国
→~1918年、オーストリア・ハンガリー二重君主国のハンガリー部分(ハンガリー化がスロヴァキアでも進まれる)
→~1938年、チェコスロヴァキア(チェコ人官僚がこの時期以降、スロヴァキア統治に当たって派遣されるようになる スロヴァキア人にとっては必ずしも彼らの事を快く思わなかったようです(当時の選挙結果を見るとかなり明らか))
→~1939年~1945年、ナチスドイツの傀儡国家ながらもチェコスロヴァキアから独立
→1945年~1968年、チェコスロヴァキアの構成部分になる
→1969年~1992年、チェコスロヴァキア連邦制国家へ変貌を遂げる。以前より多くの自治を得る
→1993年~スロヴァキア
このようにしてスロヴァキアを支配していた国はめまぐるしく変わり、スロヴァキア人によるいわゆる「国民国家」が存在したのは1939~1945年と1993年以降です。
 しかしながら、チェコスロヴァキア時代においては間違いなくスロヴァキアは重要な構成部分でした。そしてスロヴァキアはチェコ支配層によってかなり近代化を進めました。

 明日にはスロヴァキアのメディアにこの10月28日についての評論がされることでしょう。注目です。
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by zmrzlina | 2005-10-27 21:02 | チェコスロヴァキア史

1968年8月21日、「プラハの春」に対して武力介入がなされた日のラジオ放送

焼きそうせいじさんのここでの投稿で凄い、ラジオの放送を聴きました。焼きそうせいじさんありがとうございます。これが、
プラハの春の日のラジオ放送

 これは本当に凄く生々しい放送です。こんなに銃声が聞こえてくるラジオ放送なんて、ないでしょう。私も銃声でほとんど全く聞こえません。チェコ語とスロヴァキア語が聴こえます。何を喋っているのか良く把握できませんが演説をしていて、「人間の顔をした社会主義をしようというようなことを言っています」。最後のほうにチェコスロヴァキア国歌とそしてテスト放送らしきものが聴こえます。
 それでも、これだけでもその当時の雰囲気はビシビシ伝わります。時代の証人そのもので、極めて緊張感に満ち溢れた放送です。

とにかく必聴です。とにかく聴きましょう。聴きましょう。凄まじい放送です。

 思い起こせば今月は8月、「プラハの春」がワルシャワ条約機構軍によって停滞した日です。このラジオ放送を聴いて思いを馳せてみるのもいかがでしょうか。とにかく凄まじい放送です。1968年の雰囲気がそのまま蘇ります。
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by zmrzlina | 2005-08-29 00:26 | チェコスロヴァキア史

一日の差が大きな差

 時節ネタを一つ。明日5月8日という日はナチスドイツが連合国に対して無条件降伏した日です。日本でいえば8月15日のような日です。
 しかも今年は60周年にあたります。多くのヨーロッパ諸国では5月8日は祝日になっています。これは現在のチェコにも当てはまっていることです。

 しかしながら、実は以前のチェコスロヴァキアにおいては5月9日が祝日でした。赤軍(ソ連軍)によってチェコスロヴァキアが解放された日ということででした(厳密にいうとプルゼニュ(ピルゼン)はアメリカ軍によって解放されていて、100%ソ連軍による解放ではありません)。

 この背景には第二次世界大戦も終局を迎えるなかどの国の軍が、どの地域を解放していくか、というのが問題になってきたというのがあります。

 プラハもこの点では地理的に問題になる地域でした。米軍による解放も可能だったそうです。しかしながらプラハの解放は赤軍に任せることになりチェコスロヴァキア国土の90%くらいは赤軍によって解放されました。このようなこともあって赤軍によって解放された日、実質チェコスロヴァキアが解放された日、5月9日というのが長らくチェコスロヴァキアにおける祝日になっていました。

 厳密にどの年から5月9日から8日に変更したというのは知りません。89年以降であることは論を待ちません。しかしながらもしかすると89年以降92年までのチェコスロヴァキアにおいても変更が行われたかもしれません。

 いまやソ連に対するチェコ人の感情は良いものではありません(1968年のプラハの春でソ連軍が侵入したというのも一つの理由でしょう)。このこともあるのでしょうか、それともEU加盟等西欧化を推し進めるチェコだからなのでしょうか、チェコスロヴァキアにとっての実質的解放日である5月9日は祝日ではなくなりました。

 多くの西欧の国々にあわせるかのように5月8日、ナチスドイツ無条件降伏した日を祝日に変更しました。

 この変更はチェコの第二次世界大戦に対する見解を改めたものだといえそうです。これに対して私なりの考えが無いわけでもないのですが、発表は控えます。ただ、明日あたり60周年ということもありチェコの新聞でもこの事が議論されることでしょう。もし関心のある方はチェコの新聞をネットで読まれることをお薦めします。チェコにおける現在の解釈が垣間見見る事ができるでしょう。
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by zmrzlina | 2005-05-07 09:37 | チェコスロヴァキア史

57年前の今日(後編)

 さて意外にも早く前編で述べた寒い時期の熱い政争は57年前の今日、2月25日に終わります。

 さて昨日も書いたようにチェコスロヴァキア共産党も、非共産主義政党もお互いに譲れない立場になりました。

 ここで動いたのはチェコスロヴァキア共産党です。既に1946年5月の選挙で第一党になっていて、議席数も党員数も他党を圧倒していました。チェコスロヴァキア共産党は大衆動員をかけて、プラハの町で大規模なデモを起こしました。他の非共産系政党はここまでの動員力は持っていませんでした(当時チェコスロヴァキア共産党が第一党でした)。

 そしてプラハの要所、かのカレル橋やヴァーツラフ広場、旧市街広場を占め、練り歩きをするなどの一連の示威活動をしました。プラハのみならず他の都市でもそのような動きが出てきました。これは議会外での政治活動といえるでしょう。

 これに対して非共産主義政党は上に書いたようにそもそも大衆動員能力がチェコスロヴァキア共産党ほどにはありませんでした。そして自分らに同調してくれるであろうと見られた政党の支持も実に揺れに揺れ、結局辞表を提出しませんでした。これで過半数の辞表提出が実現しなくなったわけです。

 こうなると有利になるのはチェコスロヴァキア共産党です。そもそもはチェコスロヴァキア共産党を排除させる意図で出された辞表をそのまま大統領に受理させることも可能になったわけです。

 実際これはチェコスロヴァキア大統領、ベネシュ(彼の立場はどちらかというと非共産主義政党に近かったです)はもう既に国内での混乱を目の当たりにして、国内の内乱を恐れたと言われていますが、そのまま非共産主義政党の大臣の辞表を受理しました。

 そして、首相はチェコスロヴァキア共産党のゴットヴァルトでしたのでこの大臣の辞任を受けて彼の思うような組閣をしました。

 しかしながらこれによって連立政権が完全に崩壊した訳ではありませんでした。大統領は変わりませんでしたし、チェコスロヴァキア共産党以外の者が後釜に座ることも、多くありました。

 ただし、どちらかというとチェコスロヴァキア共産党の同調者を新たに迎え入れての組閣でしたので、国民戦線は形骸化されました。これによってチェコスロヴァキア共産党による単独政権が成立したと解釈だってできます。

 軍配は結局チェコスロヴァキア共産党に上がったと言えるでしょう。これ以降チェコスロヴァキアにおいては社会主義を目指していく方針が徐々に固まっていきます。2月25日は「勝利の二月」としてチェコスロヴァキアの祝日になりました。

 57年前の今日にはこのようなことがありました。チェコスロヴァキアの歴史をひも解くと8が末尾についている年は何らかの事件が起きたりする、偶然があるのですが。今回の場合はチェコスロヴァキアにおける社会主義政権成立だったわけです。

 それにしてもこんな寒い中、まあようやるわと感じます。今日もこちら日本、全般的に寒かったですし、チェコスロヴァキアに至っては当然もっと寒いわけなので寒さを思い偲ぶことができます。

 因みに近代の突発的な政治的事件に季節は関係ないのかもしれません。明日2月26日には日本においてかの2・26事件が起きている訳ですから・・・。
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by zmrzlina | 2005-02-25 19:11 | チェコスロヴァキア史

57年前の今日(前編)

 それは57年前の今日に前後して動きがありました。当時のチェコスロヴァキアの連立政権であった「国民戦線」の中での対立が深まってきて、もはやこの亀裂を修復するのがほぼ不可能になったときに起きました。

 当時の国民戦線政権のうちで非共産主義政党出身の大臣が、チェコスロヴァキア共産党との連立を解消しようとして辞表を当時のチェコスロヴァキア大統領に提出しました。

 決まりとしてはその内閣の大臣の過半数の辞任が認められると、新しく組閣することになっていました。

 このことを利用して、非共産主義系政党は辞表を提出して、新たにチェコスロヴァキア共産党を除いた内閣を作ることを狙っていたわけです。

 しかしながら実際に辞表を提出したのは全大臣の4割程度。もう少しの人数が同調して辞表を出して受理されなければ、非共産党系政党の思惑通りには行きません。大きな博打でした。

 一方チェコスロヴァキア共産党としても、もし過半数の辞表が提出されて受理されたら彼らにとって大変なことになります。自分らが政権から排除されることになります。何としても辞表出すものが増えることを阻止しなければなりませんでした。

 ここに、こんな2月の寒い日々でしたが当時のチェコスロヴァキアでは非常に熱い政争が湧き上がりました。お互いに譲れない局面、結局どちらの方に軍配が上がったのでしょうか?次回は明日。
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by zmrzlina | 2005-02-24 22:03 | チェコスロヴァキア史