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日本にチェコに中国その2その2

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 今日先日話していた黄山切手を手に入れました。ここに見せるのがそれなのですが、やはり実物の方が遥かに美しいです。JPEGの運命なのでしょうか・・・。残念なところではあります。それでも!!十分に美しい切手です。ご堪能ください。
この切手は因みに
黄山風景切手シリーズ、1963年10月15日発行、特57、16-9、蓮華峰です。42年前発行された切手とはとても思えません。際立って美しい切手です。
# by zmrzlina | 2005-04-20 01:49 | チェコ切手

日本にチェコに中国その2

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 今現時点で、もととなる切手を大して持っていないのでほとんど文字だけの説明になってしまいますが、今回も日本とチェコと中国を他の面から見てみましょう。

 中国という国はもう説明する必要もないほど、日本への影響を及ぼした国ですね。本当に長く、深く関係がある国です。漢字、中国文学、中国の思想などなど枚挙にいとまがありません。 今回は中国の切手について話すのですが、当然のことながら発行する切手は例えば三国志、水滸伝、西遊記、紅楼夢の切手、中国の詩人、杜甫、李白の切手、中国の思想家の切手、孔子の切手、景徳鎮の陶磁器、パンダなどなど我々にとって馴染みがあるものが多いのです。

 このことを大前提にして話を進めたいと思います。(今回のこの文を書くにあたっては2005年の郵趣2月号を大いに参考にしました)

 ことは1959年に起きました。当時の中華人民共和国(以下、中国)は多くの色を使ったグラビア印刷の技術をチェコスロヴァキアから導入します。当時同じ社会主義圏だったということもあるのでしょう。こういう形で中国はチェコスロヴァキアから印刷技術を導入します。

 ここでグラビア印刷というものについて少し説明します。これは一種の凹版印刷です。これは間違いありません。説明が難しいのですが非常に細かい点描画のようなものです。印刷する場所の濃淡に応じてインクの量を調整して紙に押し付ける方式といえます。(ちょっと苦しい説明ですが)

 このことは中国では1959年8月15日発行、(中国・チェコスロヴァキア郵電技術協力、(整理番号、紀65)という切手で、チェコスロヴァキアでは1959年10月1日発行、(チェコスロヴァキア・中国技術提携10周年、1075番(「1075番」はKATALOGというチェコ語の切手カタログでの整理番号)という切手でそれぞれ表現しています。デザインもほぼ同じです。(こういうのを「ジョイント・イシュー」、共同発行と言います)

 ただしもう少し読むと、この私の持っているチェコ語のチェコスロヴァキア切手のカタログでは「中華人民共和国成立10周年」と書いてあります。たしかに1959年10月1日というのは中華人民共和国成立10周年の日ではあるのですが、不思議です。タイトルにずれが生じています。

 上の記述をすると、チェコスロヴァキアの主張では1949年から1959年まで中国の切手製作を援助していたということになります。中国側の主張ではまさに1959年からチェコスロヴァキアの技術を導入したということになりますので時間的な矛盾が出てきてしまいます。

 チェコスロヴァキアの主張が正しかったとみるのもあながち間違いではないと感じます。あくまで感覚ですが、つまり1949年から59年頃までの中国の切手はチェコスロヴァキアお家芸の凹版印刷の技術を取り入れたかのような切手を発行し続けました。この時期、1949年から59年の中国切手の出来は凹版印刷に関して言えばなかなかにいいものをたくさん出しています。

 これらの時間的なことはとにかく、1959年というのは中国切手にとって間違いなくターニングポイントでした。当時50年代末からは世界中で切手は多色のグラビア印刷の時代に向かっていっていました。中国のこの時代の切手もそういった流れの中でチェコスロヴァキアからグラビア印刷技術を導入し、中国切手を発行していったと解釈していいかもしれません。

 さて、チェコスロヴァキアの技術を導入した中国は60年代の初めから文化大革命が始まる前、1965年頃まで非常に優れた切手を出し続けました。(文化大革命の頃1966年頃から約十年の間の切手は残念ながら、そんなに酷く落ちたわけでもないのですが、全体的に印刷の質が落ちてしまいます。)

 第一弾として金魚、後に唐三彩、菊、牡丹、蝶、丹頂鶴、京劇そして中国の文人がその絶景ゆえによく訪問した中国の黄山切手が発行されました。特に黄山切手はもうそれは現在のレベルから見ても、極めてすばらしい切手です。
 グラビア印刷と凹版印刷の長所を最大限まで引き出して、絶景に反映させています。(ちょうど今、この切手、切手の博物館で見られます。極めて出来の良い切手です。一見の価値ありです)

 金魚、唐三彩、菊、牡丹、蝶、丹頂鶴、京劇に黄山・・・。これら以外にも1959年から65年頃にかけて素晴らしい切手を中国は発行しました。そしてこれらは一部なりとも皆様にはなじみの深いものがあると思います。そんな美しい切手を印刷した中国の背景にはチェコスロヴァキアの印刷技術があったなんて私も驚きでした。
 まさに日本の文化になじみの深いものが中国にてチェコスロヴァキアの技術をもとに切手の形をとって発行されていたわけです。当時の日本は西側でチェコスロヴァキアと中国は東側でした。当然中国は主に自国向けに切手を発行したわけでしょう。しかしながら意図せず日本人にとって非常に魅力的な切手を続々と発行していったのです。当時日本と中国には国交ですらありませんでした。このことには非常な面白さを感じられずにはいられません。

 P.S どなたかお願いです。この頃の中国切手の画像ファイルお持ちの方もしよろしければ私のメールアドレスに送っていただけないでしょうか?私のメールアドレスはzmrzlinova@yahoo.co.jpです。何とかして皆様にお見せできればと思っています。(アップロードしたいのです)長い文章を書きましたが、やはり百聞は一見にしかずです。どなたか何卒お願い致します。この金魚切手だけではまだまだこの頃の中国切手の魅力を示すにはまだまだ不十分ですので・・・。
# by zmrzlina | 2005-04-12 17:17 | チェコ切手

あんまり節操無いかもしれませんが

 とタイトルに書きましたが、やはりここにいらっしゃる皆様のためにもgoogleのリンクを張っておきました。チェコ関連のサイトというわけではありませんが、皆さんもよく使われるでしょうし、私も良く使うので張っておくことにします。どうかご利用くださいませ。
# by zmrzlina | 2005-04-10 12:06 | このサイトについて

社会主義都市の観光のしかた(笑)

 例によって中村泰三、『東欧圏の地誌』古今書院、1987年を読み進めています。
 今日はそこで思ったことを少しばかり書こうと思います。

 東欧圏における社会主義政権は第二次世界大戦終了間近から1948年にかけて成立しました。
 中村泰三、『東欧圏の地誌』をお持ちの方は57ページをご覧いただきたいのですが、社会主義政権の成立に伴い、概ねソ連の都市計画に合わせたような都市を作る、又は変更を加えていきます。社会主義都市が生まれていくわけです。

 まず昔あった市街は破壊するときもありますが、概ね保存されます。そして既存のまたは新築された駅はそういった旧市街から少し離れたところに配置されます。既存の駅の場合はちょっと事情が変わるのでしょうが・・・。そして大体そういった旧市街と駅に対して線対称状に新しい都心を作ります。この都心のまわりに副都心が作られます。

 居住地区に関しては先ほど述べた、旧市街、駅、都心、副都心の周りに建設されます。更にこの居住地区の周りにスタジアムや緑地などの娯楽施設が作られ更に周縁地域とでも言うべきところに工場が建設されます。

 これが「社会主義都市」建設の概要です。

 これらの都市は私自身が見た経験で言えば、小規模の都市に特に当てはまる感覚を受けます。かのチェスキー・クルムロフだってそれなりに沿っている感覚を受けたものです。人口が一万人位の都市ですから規模的には当てはまり、確かに地図を見るといわゆる居住地域は町の中心部を囲むところにありました。いわゆる武骨な社会主義的なアパートですね。あとブルノは一度しか訪れた事がないので何ともいえませんが、地図を見る限りでは「社会主義都市」に沿っているような気がしなくもありません。プラハは新興住宅地(といってももうそんなに新しくもないと思いますが)が、ここでいう居住地区が例の観光地区の周りにあります。ただし、プラハばかりは新しくない都市なので純然たる「社会主義都市」には感じられません。

 皆様もチェコのみならず、周辺の旧社会主義国へ訪問される方もいらっしゃるかと思います。必ずしもプラハやブダペストのような大都市ばかりにいらっしゃるわけでもないと思います。小規模の都市にいらっしゃることもあるのではと思います。

 ですので、当然地理的条件によって差は出てくるはずですが、こういった原則を知っておくとその訪問される町がどのようにして作られて行ったか、うかがい知ることができるのではないかと思います。地図に迷う心配も少しはなくなるということもあるかもしれませんね。(笑)(こう色々書きましたが、実際地図に迷われても私自身は責任は負えません。あくまで参考ではありますので。済みません)
# by zmrzlina | 2005-04-02 12:12 | 地理

東欧の地理について学習し始めて気付いたこと

 皆様には大変に申し訳ないのですが、 mixiへの参加希望メール受け付けはしますが、もう少し条件を制限してみます。様子見でもあります。これはmixiへの規約の事も考慮に入れたことですし、あんまりにも気安く人をmixiに参加させてしまうのもよくない様に思えたからです。

 誤解していただきたくはありません。引き続きmixiへの参加希望メールは受け付けます。メールアドレスはzmrzlinova@yahoo.co.jpです。メールのタイトルは「mixiの参加希望」と書いていただいて結構です。ただし、なぜmixiに入りたいのか、入りたい理由を本文に(そんなに肩肘張らなくてもいいです)書いていただくようお願い致します。
 全くもって勝手なお願いではあります。大変に申し訳ございません。ただし、やはりmixiへの参加については以上の事を考えました。何卒お願い致します。メールを頂いた後、私が吟味して招待メールを送ることに致します。これからも宜しくお願い致します。

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 さて今まで、私はいわゆる「社会科」を専門に学習してきました。当然社会科といってもいと色々あります。歴史、経済、社会、地理などです。もともと好きな教科でしたが、今までは主に歴史、経済、社会について学習してきたつもりです。特に歴史は好きな学科で、歴史学まで学習しました。

 前置きが長くなってしまいました。今は新たに東欧の「地理」について学習を始めました。そうすると、一つ非常に面白いことに気付きました。
 因みに読んでいる本は中村泰三、『東欧圏の地誌』。古今書院、1987年です。(1989年の東欧の改革以前であることには注意をしなければなりませんが、さすがに山や川がそうそう簡単に18年の内に山脈の形が劇的に変わることもないと思うので(実は2002年チェコで洪水が、2004年スロバキアでも大災害が起きてはいるのですが)基本的な地理や気候の傾向に関してはまだまだ使える本だと思います。難しくもない本なのでお薦めです。)

 ハンガリーについてです。
 ハンガリーは1918年に19世紀から成立したオーストリア=ハンガリー二重君主国から独立します。この後は実に様々な混乱(例:1919年に社会主義政権の一時的成立、その後この社会主義政権崩壊後もホルティ政権成立)を経ます。そして王のいないハンガリー王国に落ち着きます。こんな状況でハンガリーは1920年にトリアノン条約を結んで、領土を大幅に減らします。どれだけ減らしたかというと三分の一、又は三分の二とも言われています(正確な計算がほしいところです)。相当な領土割譲です。この上に地下資源と賠償金を連合国に譲ることになったわけですからとんでもない負担です。

 ここで問題になるのは失った領土についてです。ハンガリーはスロバキア、トランシルバニア(現在のルーマニアの北西部分)、クロアチアを失います。
 つまり当時でのチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアに領土を割譲します。
 あとは、実は上のリンクにもないのですが現在のオーストリアのブルーゲンラント州となっている部分も、もともとはハンガリー領で、これがトリアノン条約の結果オーストリアにも割譲されます。なんだか面白いのですが、実際そうなのです。

 これらの地域は今まで習ってきた歴史、経済と更に今学んでいる東欧の地理を組み合わせると、ちょうどハンガリーがトリアノン条約で失った領土はちょうど地下資源が豊かにあるところであったり、鉱山があったり、肥沃な土地であったりします。今のハンガリーの領土はトリアノン条約後のハンガリーの領土と変わらないので分かりやすいので割譲した領土についてトリアノン条約のあとの動向も絡めて、辿ってみます。

 まず、今のスロバキアの南の方、平野部でドナウ川以北の部分です。第二次世界大戦直前にハンガリーは南スロバキアを一旦回復します。そして後にチェコスロバキアに返還されたあと、1945年以降のチェコスロバキアの土地改革の際に最も土地争いが激しかった地方です。スロバキアは基本的に地図をご覧になっても分かるように基本的に山国です。にもかかわらずこの地域はそれこそチェコスロバキア一肥沃な土地です(実際そこに行って多くの穀物が実っているところを見ました)。

 またハンガリー国境のすぐ南、ベオグラードより北の地域も肥沃な平原の地域として知られています。第二次世界大戦が始まり、枢軸国側に立ったハンガリーはこの地域を一時的に占領します。国益が絡んでいたと想像するのは難くないです。

 更にトランシルバニア地方、第一次世界大戦前のルーマニアとの国境の地域のカルパチア山脈の以西には鉱山があります。この地域は同様にハンガリーは第二次世界大戦中、一部を回復します。ただカルパチア山脈にまで到達していなかったので、必ずしもハンガリーにとって見返りの大きい物だったかは疑問です。それでも回復願望はあったのでしょう。

 こういった政治的領土の変遷と(どちらかというと歴史に入る分野でしょうが)、地理を複合させて考えるとなぜハンガリーが枢軸国側に立って戦うことになったのか、なぜそういった失った領土を回復しようとしたのか、より深く理解できそうです。非常に興味深いものです。
# by zmrzlina | 2005-03-30 19:28 | ハンガリー